『ファイヤーガール』(トニー・アボット、代田亜香子訳、白水社、2006/2007.6) ご高著を拝受しました。白水社からのヤングアダルト向けは、好きなラインナップが多いです。
『ファイヤーガール』のタイトルになっている女の子ジェシカは、事故で大やけどを負い、皮膚移植の検査・手術・治療を繰り返しています。治療施設が変わると引越し・転校。学校も治療優先なので、欠席も早退も多いです。
主人公はトム・ベンダー。カトリックの私立中学に通っていて、クラスでも目立たないタイプです。クラスの優等生で人間的な魅力もあるコートニーに恋心をいだいていて、かわいいほど。しかし、彼の頭の中では、マンガやお話を元にした空想がいろいろ渦をまいています。絶体絶命のピンチから、自分だけの「小さな必殺技(…というと語弊がありますが、『ほんのちっぽけで安っぽくて、ほかの人が考えもつかないような力』〔p.110〕)」を駆使してコートニーを助けることを夢想したり。怪力の小指とか、ものすごく早くスキップできるとか、この空想は、けっこう笑えます。
ジェシカがトムの学校に転入してきてから、また次の病院に行くために転校するまで、ほんの数週間。大やけどを負って、モンスターのようになった冷たく、熱く、かさかさの皮膚のジェシカは、クラスの中で居場所なく、クラスメイトも、ジェシカをどう受け入れたらいいのか分かりません。「たまたま」ジェシカの隣の席で家も近かったトムは、意思に反してジェシカとかかわることになり、しかし、彼は大汗をかきながらも逃げませんでした。宿題を届けに行く、お祈りのときに手をつなぐ。けっしてかっこよくはない、やさしくしようなんて偽善ぶった気持ちはなく、本当に不恰好な自分のまま、ジェシカを恐ろしいとすら思う気持ちに偽りなく、でも、トムは、自分にできることはしようと考えます。
ジェシカという少女の抱える、傷というにはあまりにも大きな喪失は、経緯は違いますが、先日の『14才焼身自殺日記』にも通じるものがありました。しかし、ジェシカの場合は、あまりに不当に人生が奪われていること、彼女の物語がややも一方的であることに、少し不満も感じました。両親との関係は本当はどうなのだろう、美しかったジェシカ、花のようなジェシカの「現在」は、通過されるべきものではない、と思ったのは、私が女性だからでしょうか。
それはそれとして、トム・ベンダーがジェシカのいる数週間の中で、自己完結していた空想を表に出し、それと同時に、外からの空気も取り入れるようになったこと、マンガに影響されつつ、十分オリジナリティあふれた空想のおもしろさ、しかし、どこにでもいそうな平凡な中学生の、彼の人生なりの「大きな珠」の描き方は実感がこもっていて、ああ、大多数の中学生の男の子って、こんな感じかもしれない、と思いました。
いや、通過したのではないかもしれません。ジェシカは去ったけれど、「何か」を残していった。また、さまざまな学校に通わざるを得ない中でも、コートニーが言うように、トムとのわずかなかかわりの中で「好きの感情(恋愛的な意味ではなく)」をもてたことを否定したら、ジェシカに失礼でしょう。まだその意味は先にならないと分からないけれど、「何か」ではあるもの。たぶん、それがひとしく「教育」「学び」であると思いますが、ジェシカが通過されたと思うのは、逆に私の側のジェシカへの過小評価かもしれません。そういう、主人公たち自身がしたり顔にその意味を言うことなどできない経験をていねいにすくえるのが、YAの魅力だな、ということを改めて思いました。