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2007.03.04

虹への旅

Nijihenotabi
『虹への旅-ドーム郡シリーズ2』(芝田勝茂、小峰書店、2004.1)

シリーズ的には後先になってしまいますが、こちらから。タカバール、アシバール、ワラトゥームの3国に分裂したアイザリアには、「マリオを信じるな」ということわざがあるほど、マリオはうそつきです。小さなときから口からでまかせで生きてきて、町から町へ流れていくうちに、森の民になろうと考え、後先考えず出かけたグルノーの森で出会った2人の少女ナチカとパムリンのところで、森の民としての修行をはじめます。

ところが、今のアイザリアは、傭兵あがりのアサスという男が王を名乗り、いのりの民をほろぼし、国をのっとろうと戦争を続けている戦乱の世の中。のんびりとした時間は長く続きません。グルノーの森で、もと五民であるどうし、草原の民の「風」軍を率いるユリーズと、荒野の民の「空」軍を率いるゴムールが戦いをはじめようとします。居合わせたマリオは、戦いを避けさせたいあまり、口からでまかせに、自分は森の民の王ヌバヨだと名乗ってしまいました。

一時休戦の代わりにゴムールとユリーズが出した条件は、ナチカとパムリンを人質にし、1年の猶予期間のあいだに、「山の壁」という、こちら側からみればいわば地の果てを越えて、本当にあるともしれないトープ・アイザリア(夢のアイザリア、もうひとつのアイザリア)に行くことでした。そして、かつて、いのりの民がほろぼされる前に不幸を予見した者によってアイザリアから安全な場所へ連れ去られた、いのりの民の王女ラクチューナム・レイを連れ帰るという課題が与えられます。とにもかくにも出立しなくてはいけないマリオ。山の壁までの長い道のりには、なぜか、気のいい道連れが2人登場するのですが、山の壁を越えたら、そこから先はマリオひとりで進まなくてはいけません。

ここまでがいわば前段で、メインは、トープ・アイザリア(ドーム郡です。こちらのひとは、自分たちのいるほうが「ただの」アイザリアだと思っています)にやってきたマリオが、よそ者としての一線は感じながらもドーム郡に迎えいれられ、少女ノームをはじめとする人々とふれあう中で、様々に考えを深め、自分の行動を決めていくところにあります。もちろんマリオだけでなく、かつてドーム郡にやってきた不気味な影男がもたらそた鏡に心奪われ、気持ちが曇っていたノームがいかにすがすがしく自分を取り戻し、大きな決意をするか、あるいは、ドーム郡の若き長官の迷いと決意、若者たちが自分の意見を出し、ぶつかりあいながら、ひとつの大きなパラダイムシフトを経験して、真にめざすべきものは何かを追求しはじめるところなど、キャラクターそれぞれの逡巡とその後の行動が、胸にせまる真実味をもって描かれています。読み手の私もいつか違う局面で感じたような迷いと解決――つまり、最初にあるべき目的に照らして、ここが肝心なのですが、自分の欲のためではなく、人様のために役に立とうとするとき、おのずと道がひらけていくような経験――が、ファンタジーの形で表現されています。このことに気づくのは、今、大人になった私ですが、埋め込まれたこのメッセージが、まだそのような人生の選択をしていない子どもやYAの読者の無意識の中にしまいこまれるといいなあということも、読みながら願いました。

論文書きとかでも同じなのですが、だんだんに構築されていった物語世界が、あるところで、それ自体として走り出す瞬間を感じます。そうすると作家は、必死で伴走していき、しかし、ある点では手綱を引いて方向性をただすような――この物語は、それは、ドーム郡の人々が、化石の軍団と戦う決意をするところとか、結局、五民軍とアサス軍が戦うところとか、ひとつの大きなテーマである「戦い」にからんでいるのです――感じになるのかな、ということも考えました。動いていく物語世界と、人としての迷いと選択を描く作家がぶつかりあうところに、ファンタジー読書の醍醐味があります。

キャラクターの造形が印象的でした。第一作のかかしほどではないにせよ、マリオ。もちろん、芝田さん理想?のノームのような女の子。天然の健康さがあって、快活で、自分に正直で、かわいくて、ちょっとした恋心ももりこんで。魅力的だと思いました。彼らが、天下国家を論じる前に、目の前の人を助け、ひとりでもふたりでも大切な友だちのために必死で努力することが、やがて、ぜんたいの平和を導いてくる、という、物語のどっしりした土台となる価値観には、パターンですが、じんとしました。

順番に道を進んでいくところや、ちょっと変な生きもの(というか化石の軍団とか)が出てくるところ、ブレイクスルーがあれば意外にうまい方に進んでいくところ、中心に女の子がいるところ、などに『オズの魔法使い』を感じました。それから、大きなことをなしとげたあとの若い男女が、あえて上には立たずに平凡な暮らしを選んでいくところ-これはたしかにひとつのパターンなのですが、最近どこかで見たなぁと記憶とたどって、ゲドとテナーという組み合わせに行き着きました。彼らも、結婚したのは中年以降だったっけ、と余計なことを思い出しながら、森の民、ドーム郡の娘として、自分たちが選んだ場でよき生を生きていくだろうノームとマリオの会話を読みました。佐竹さんの絵もすばらしいですね。

ところで、原作が書かれたのは1983年。前作の『ドーム郡ものがたり』が1981年。今回私が読んだのは改稿版で、比較はしていないのですが、たぶん、中心的な部分にはぶれがないだろうと予想すると、80年代に中高生だった自分が、エコや戦争をキーワードに、真剣に地球の心配をしていたことを思い出します。ナウシカの劇場公開が1984年でした。マンガと劇作はほとんど別物ですが、あの劇場作品だけ見れば、自然・戦争が大きなテーマになっていました。影響を受ける・受けないといった狭いことではなく、逆に、そういうところから時代性が見えてくるようにも思います。

芝田さん、おもしろかったです。

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