1歳の誕生日と今のわたし
Tくん1歳の誕生日でした。Tさんは、昨日の夜から、「明日、Tちゃん1歳だね」といいつづけ、朝、目が覚めたとたんに「お母さん、今日Tちゃん1歳なの?」といいました。二人で卵を使わないココアケーキを作り、3時に私の両親に来てもらって、Happy Birthdayの歌を歌って、ケーキといちごプリンを食べました。1kgほどのおもちも背負わせて、ぺったんと上手にしりもち。これは、歩けちゃうよりもしりもちをついたほうがいいらしいです。結局、11ヶ月で歩いたTさんに対し、Tくんはゆっくりのようで、誕生日前には歩きませんでした。でも、Tくんも、伝い歩きとハイハイでどこにでも行き、階段も好きです。ついでに、8ヶ月で勝手に卒乳したTさんに比べ、Tくんはいつまでも母乳が大好きのようです。
よその人には「あっという間に大きくなるね」といわれますが、0歳の1年間というのは、当事者にはそれなりに長いです。長く感じました。ふにゃふにゃの新生児から穏やかな低月齢時代を経て、いまや相当に自己主張するようになったTくんにとっても、大きな1年だったのではないかと思います。
馬の仔などは生まれてすぐに立ったりするわけで、生物としてみるなら、1歳くらいで生まれるとちょうど天敵に襲われたり体力がなくて死んだりすることがなくていいのかも。でも、2年間も妊娠するのはちょっと勘弁です。生物的にはおなかの中にいるようにゆったり優しく包み、動物ではなく頭の発達した人間的には、適度な刺激とコミュニケーションをかわすことが、大事なのでしょう。さじ加減がこの時代の子育てというわけです。
子育て、といいますが、おむつを替えたり、ミルクや母乳を飲ませたり、着替えさせたりするのは枝葉末節。その子に対してある程度までマネージメントをして、衣食住だけでなく、貯金をしたり、情操的に関わったり、学校や習いごとを考えたり、友達付き合いをしたりすること、安全を保障したり、家をととのえたりすること全部が子育てです。だから24時間。平日の朝11時ごろにすいた電車に子ども3人連れて乗っていたりするお母さんなど、平和でのんきと思われるかもしれませんが、ノー。頭も身体もフル回転で、会社を3つ経営しているようなものですよ?
今の自分の状況を考えてみると、お金をもらうという意味での仕事としては、4月から始まる週2日の講師、リーディング、各種評論などの原稿書き、育児・ベビー関連のレギュラーのライター、というのがあります。共著含めた本の計画は3冊進行中です。お金がからまないほうだと、IRSCL2007大会の実行委員の仕事や今白百合で参加している2つのプロジェクトがあります。その他、飛び入りでいろんなことを頼まれます。自分だけで進めなければならない研究としては、ずっとひっかかっている論文、海外誌への投稿など、それこそいろいろ懸案があります。あと時間的に一番やっていることといえば子育てでしょう。
だけど、お金をもらうか否かで仕事かどうかは実は分けられず、なんというか、最近思うのは、すべてresponsibilityの範囲内であるということです。だからといって、「鈴木さん、原稿料いらないらしいよ」とか言われると困るのですが、↑のいずれにしても、何かしら求められたものごとに対して応じる=response=responsibilityの感覚でいろんなことをこなしていることに、最近気づきました。その結果としてお金をもらう場合もあれば、自分の名前で世間様にものがいえるときもあれば、子どもが素敵な笑顔を見せてくれることもあります。でも、私にとって根っこはいっしょ。求められたものへの贈与です。
内田樹先生のブログの「2006年1月17日分」に、このような文章がありました。(改行変更しています)
学術論文は違います。 読者がいます。 というか、一人でも多くの読者に、少しでも長い期間にわたって「読み継がれる」ということ、それこそが学術論文の価値を構成するのです。 まだ見ぬ読者に向けて書くこと。 その心構えに学術性のアルファからオメガまでが含まれます。 きちんとしたデータを示すのも、典拠を明らかにするのも、合理的でていねいな論証をするのも、できるだけ多くの先行研究や関連研究に目配りするのも、すべて「読者のため」です。 (中略) すぐれた学術論文というのは、「あなたがもしその問題に興味があるけれど、まだよくわかっていない」初学者だったときに「ぜひ読みたい」と思うし、「読んでよかった・・・」と思えるような論文のことです。 書いてくれたひとに「ありがとう」と言いたくなるような論文のことです。 贈与なんです。 学術性の本質は。
贈与すること。学術的態度は、もちろん、大学院に入ってからずっと鍛えられたことですが、結局、仕事を受け、それに対して書いていくことは、論文であれ評論であれエッセイであれ、小文であれ、私にとっては同じ「贈与」の意味があります。子育てもそう。そして、いずれのどちらも、贈与させてくれることによってこそ、生む力が生まれてくる恵みです。
そして、「自分のため」と思われる研究の方も、どうも違う。私の中のもうひとりの私というか、児童文学研究に連なることども、ことばのもつ大きな力に胸を借りている「鈴木宏枝」が求めることを書いている、だから身銭を切ってでも、就職の先が見えなくても、とにかくやらなければならない、「鈴木宏枝」に対する贈与であるように感じています。
贈与する身体的な意味での私にも趣味があって、それはパッチワークだったり、おいしいものを外食したりすることで、でも、今はそういうことは当面お預けです。でも、まあ、いいか、と。こういうほうは老後の楽しみにとっておきます。あと、こういったすべての贈与をさせてくれる相手に感謝と、それを一緒にマネージメントしてくれる相方にも感謝です。
Tくん、1歳おめでとう。生まれてきてくれて、ありがとう。
