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July 2005

しずかに流れるみどりの川

sizukani
『しずかに流れるみどりの川』ユベール・マンガレリ、田久保麻理訳、白水社、2005年6月。
Une Riviere Verte Et Silencieuse, Hubert Mingarelli, 1999.

 ご高著拝受したのは6月。MESA研究大会の合間の時間に読了。

 大好評だった『おわりの雪』につづく、マンガレリの第2弾である。主人公は違うけれど、静謐さと父―子関係、しずかなユーモアと子ども時代のぼんやりとした区切りといった作家の特長を、同様に楽しむことができる。

 読み終わると、「ああ、プリモ、きみって…」と語りかけたくなる。大人には無邪気と見える少年が、心の内で、どんなに父さんを愛し、心配しているか。責任すら感じているか。きっとプリモは、大きな目をした細身の少年で、落ち着いた鳶色の髪の毛と、少しぶかぶかの服を着ているのではないか…などと私の空想もふくらんでいく。
 うすうすと大人の事情を察しつつ、草の中に作ったトンネルをひたすらに歩きながら、プリモは、考える、考える、考える。『おわりの雪』で主人公の少年が、雪でまっしろの野原を歩きながら、犬のことやトビのことや死を考え続けたように、ここでも、一種「包まれた」空間で、プリモの空想の言葉は、表に出てくる話し言葉よりもはるかに饒舌だ。 「つるばらを売ってたくさんお金をもらったら、何を買うか」「父さんは、子どもだった頃、素手で何匹マスを取ったのだろう」。どの空想も、記憶の世界そのものと混交するかのように白い光の中でのみ輪郭を持つ。「しずかに流れるみどりの川」は、その象徴なのだろう。入り江も支流も、プリモの中で、いつまでも澄んだ水、マスでいっぱいの豊かさな川でありつづけよと、私はねがう。
 父さんは、プリモがこんなに聡明でまっすぐな少年に育ったことだけで、人生のすべてに感謝しているのだろう。父さんや暮らしを心配するプリモの子どもらしさと、そんな浮世のことより目の前の宝物に満足している父さんの、おとな的な部分との、普遍的な小さなズレが、この本をしみじみ幸福にしている。

 あの『おわりの雪』の感動をふたたび  「ふしぎな草」がどこまでも広がる原っぱに囲まれた小さな町。  電気も止められてしまうような貧しさの中で寄り添う父と子は……(帯より)

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MESA研究大会

 多民族研究学会の第4回全国大会が青山学院女子短期大学であったので参加。まだできて2年の学会だから、全国大会でもごくちんまりとしたもので、50人くらいだっただろうか。
 研究発表は嘉納育江さんの「La Llorona(ラ・ジョローナ)を探して:チカーナ文学とアメリカ南西部の境域性」。泣く女で幽霊/生身の女いずれもの形があり、聖母グァダルーペに相対する、いわばリリスとしてのラ・ジョローナに、チカーナ文学がたとえばフェミニズムで新しいイメージを与えたこと、抵抗のシンボルに変容しえたことなどの指摘のあと、そのnegativeなイメージが解体/再構築されることがメスティーサのアイデンティティの進化と重なることの報告があった。質問者の方も「素朴にすばらしい」と評されていたパット・モーラの詩を引用(日本語の方/嘉納訳)。

リオ・グランデ
 ラ・ジョローナはリオ・グランデなのかもしれない。
 声を運んで流れる川。
 スペイン語しかしゃべれない女たちの声を。
 頭上高くに丸く作った手の中で
 羽をパタつかせている幼鳥のように
 じっと息をひそめている女たちの声を。

 ラ・ジョローナはリオ・グランデなのかもしれない
 仰向けになって転がるある午後
 まっすぐに太陽を見つめ
 褐色に流れる髪の毛は玉ねぎや唐辛子の畑へと
 注ぎ込む
 自らの恐怖で笑う
 女たちの声を集めながら
 
 ラ・ジョローナはリオ・グランデなのかもしれない
 御影石さえも貫き、星や月を集め、
 一晩中、彼女のストーリーを物語る
 灼熱の中、彼女から水をすくい
 唇をあてて彼女をなめ、明の星がのぼるように
 声をあげる、そんな女たちの話を。

 シンポジウムは 「記憶と語り:エスニックの地平から」で、 
1:サラ・バートマンを歴史に甦らせた女たちの声―記憶の淵からアフリカ女性の尊厳を取り戻す(楠瀬佳子)
2:黒さと記憶と創造力―アメリカ黒人をめぐって(小林憲二)
3:切断と連続性―アジア系女性作家の記憶と語り(小林富久子)
4:最強の記憶:現代インディアン作家にみる歴史の記憶化(長岡真吾)

 質問は、具体的かつ興味深い報告をされたサラ・バートマンに集中していた。18世紀にケープタウンからロンドンに連れていかれ、「ホッテントット・ヴィーナス」として見世物にされ、裸にされて人類学者に観察されたコイコイ族の女性(英名:サラ)。1974年までその脳みそや性器がパリの人類博物館に展示されていたという。サラの人権を回復し、「野蛮」「未開」というアフリカ(女性)への見方を改めるために、サラ・バートマンを、今語りつぎ、記録しようとする動きが紹介されて、私自身も分かりやすく深い問題提示に、とても引き込まれてうかがった。
 サラのコイコイ族の名前が知られていないこと、サラ自身の声は残されていないこと(記録はまわりのひとの証言や記事)など、いくつかひっかかる点もあり。語り直すことが、新たな侵食の声にならないことを心しないといけない。

 シンポジウムの途中で地震。この頑丈な建物の1階にいてこのゆれとは…と歩いて帰るシミュレーションまでした。結果的には東横線が動いていたので、パートナーにピックアップに来てもらう。彼は子どもたちと砧公園に行っていて「揺れたな」くらいしか気づかず、ニュースも見ていなかったので、私から状況を聞いてびっくりしていた。
 新宿方面に行っていた母はタクシーに乗るまでに1時間半とのことで、腰痛起こさなくてよかった。父は海外旅行から帰ってきた日。始発だったからよかったけれど、京成も上野まで4時間もかかったそうで深夜の帰宅になった。

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民間託児所デビュー

 午前中からお昼まで用事。母は腰痛もちなので抱っこが不安とのことなので、Tさんだけ見てもらって、Tくんは民間託児所にデビューした。人見知りもしない時期で、逆にいろんな人に笑いかけてもらったりかまってもらったりするのが好きだから、まあちょうどいいだろうと。家からすぐなので、何かあったらピックアップに行ってくれるよう頼んで4時間出かけた。
 Tくんは、ずっとごきげんで過ごしたようで、ミルクを1回飲み、お昼寝を40分ずつ2回して、年長の月ぎめ保育児さんたちが盆踊りの練習をしているところをずっと見ていて体を揺らして楽しんでいたらしい。かつてこの施設にTさんを1回だけ預けたときは11ヶ月で人見知りもし、2時間の中で相当泣いたことを思い出す。とにかく、今回はTくん楽しく過ごせてよかった。施設じたいは、2歳くらいの大きい子になると物足りなさそうだけど、今のうちなら、利用すべきときは上手に使って、と思う。

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児童書大放出

 Tくん、Tさん、私、だんなさんの順番で風邪をひき、最後にきただんなさんが大変な目にあう。不運に過労な時期とも重なり、木曜日は39度で早退してきて金曜日もずっと寝ていて、土曜日に異常な喉の痛みで、日曜の早朝に大学病院に行ったら、扁桃腺が腫れ上がっていて、そのまわりに口内炎がいっぱいできているという、考えただけでもイタイ状態だった。
 そのかんにも日常はまわさなくてはならないし、父の旅行中でもあったのだが、母までぎっくり腰になってしまい、コレデモカ状態。私は、母のお使いを頼まれたり、Tさんの送迎をしたりで車にすごく乗った数日間だった。

 そんな中、大学で重複児童書大放出というナイスな企画があったので、Tくんは喉の痛いだんなさんにまかせ、Tさんだけ連れて午前中に出かけ、60冊ももらってきてしまう。村上勉さんの絵ではない『だれも知らない小さな国』とか、ラングの色の童話集何冊かとか、ランサム6冊とか(肝心な巻はなかったので、これは復刊のを買うとして)、カロリーヌの絵本とか。ハードカバーのピアスやロッタちゃん、ウサギヶ丘や『ポリーとはらぺこオオカミ』も。いずれも放出されるだけあってけっこういたんでいるが、いいものを手に入れた♪
 汚れている本をきれいにしたりシールをはがしたりする方法を知りたいなあ。

 はだしになって本の山のあいだをてけてけ走り回っていたTさんにも好きな本を1冊だけ選ばせたら、きっちょむさんのお話だった。しぶい。
 貴子さんに御礼をいい、Tさんついてきてくれたごほうびに砧公園に寄り、久しぶりにふたりで思いっきり遊ぶ。
 とても暑い日。Tさんのペースで、木の枝を拾って「見て、カニさん」とカニごっこをしながら探検。塚をのぼったり、側溝を歩いたり、すべりだいをしたり、たっぷり2時間。帰ると、だんなさんは、喉が痛いなりにいろいろ買い物したかったりしたらしく、Tくん連れてみなとみらいまで出かけていた。よかった、みんな元気になって。

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花とアリス

hanatoalice ぎりぎりまで締切を延ばしてもらった原稿を最後に推敲しつつ、だんなさんがDVDで岩井俊二の「花とアリス」を見ていたので、つい一緒に見てしまった。すごくおもしろかった。

 長野まゆみの『少年アリス』は、少年のアリスが主人公。今回の主人公は、女子高生(最初は中学生)ふたり。花やしきに住んでいる花ちゃんと、バレエで一緒の有栖川、通称、アリス。同じ高校に入学した花とアリスだけど、べったりの関係ではない。
 花は電車の中で好きになった憧れの先輩に近づくために落語部へ入部。放課後、彼の後をつけているときに、シャッターに頭をぶつけて倒れてしまった彼に駆け寄って、目覚めたときには記憶喪失と思い込ませて「あなたの彼女です」と嘘をつく。
 話のつじつまを合わせるためにアリスを元カノにし、やがて3人で会うようになると、アリスの方にも微妙な心情の変化があらわれる。一方、アリスはアリスで、スカウトされてオーディションに出たり、別居している父との時間を持ったり、女子高生らしいモザイクの時間を過ごしている。
 花とアリスの絶妙な関係も、アリスが先輩に重ね合わせた父のかげも中国語も、そしてあのバレエも。写真用のレンズで撮っているという映像美がさすがだった。記憶喪失の無謀な嘘や、二人の母親の造形など、まじめなのだけど笑える場面もある。ほんとに素敵な映画だった。

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エンピツは魔法の杖

『エンピツは魔法の杖 物語・詩・手紙…ニューヨークの子どもたちに「書くこと」を教えた作家の奇跡のような3年間』サム・スウォープ/金利光訳、あすなろ書房、2005年6月

enpitu 副題の通り、子どもの本の作家であるサムさんが、「教師と作家の協同作業」という機関の依頼を受けて、ニューヨーク・クイーンズの公立小学校の3年生のクラスに入るところからドキュメントが始まる。
 当初、10日間の予定だったクリエイティブ・ライティングのプログラムは、子どもたちとのふれあいにのめりこんでいったサムさんの意思で、ボランティアの形で3年間も続き、サムさんがそのクラスの子どもたちの卒業を見届けることでプログラムは終わる。そのかん、彼は、生徒の進路に心を砕き、校長に交渉して、使われていなかった小部屋を自分の職員室に整頓する。生徒の父母にも会い、生徒たちを自宅に招く。

 サムさんは、子どもたちにメタファーを教え、協同作業でもって忍耐強く子どもの着想にストーリーラインを与え、宿題を出し、詩を学ぶ。1年目は「箱」、2年目は「島」、3年目は「木」というプロジェクトを考え、それに添って、ものを観察して書く方法やおはなしを広げていく方法を学ばせる。6年生の「ツリー・プロジェクト」は、子どもたちが、それぞれに木を養子にし、木に語りかける形で詩や散文を書くものだ。木の理科的な勉強をし、セントラルパークに出かけて観察したり葉っぱを拾ったりしながら、子どもたちはネイチャー・ライティングを試みる。
 教室や公園での子どもたちの一瞬の情景を見逃さないのが作家の目であり、気乗りのしない子どもとコラボレーションして物語づくりに導いていくのは教師としての手腕だろう。その冷静さは裏を返せば楽しいユーモアにもつながる。

 この本の何より読ませるところは、この3年間の「奇跡」がプロジェクトXのような成功譚になっていないことだ。授業の準備に没頭し計画を立てても、思うような反応を引き出せないこともある。すべての生徒に好かれたいという危険な誘惑に陥りそうになることもある。実際の担任の先生のキャラクターによって、授業の重みが変わってしまう試練の時もある。傷つく言葉を投げつけられることもあれば、子どもたちに飽きられることもある。宿題もやってこないことも日常茶飯事だ。3年生当初の28人のクラスは出身国が21カ国、母国語は11にもなり、移民の親世代は貧しくて子どもの勉強にまで心を砕くことができなかったり、英語を話せなかったりする。先生と親の仲立ちにすらなる子どもたちは、家族や暮らしの問題も抱え込み、それが暴力的に出る場合もある。作文に身が入らないことも多々ある。
 宗教の教えと現実とのはざまで悩む子ども、両親の不仲に傷つく子ども。彼らに対して無力でもあるということを、サムさんは冷静にありのままにとらえている。

 だけど、だからこそ、ことばと書くべき対象と書き手の心とが合致した幸福な瞬間には、子どもたちの書いた文章が読み手にしみじみ響くものになる。I Am a Pencilという本書の原題は、クラスが4年生に進級したとき、ジェシカという賢い少女が「自分のメタファー」として書いた詩の一部である。「わたしはエンピツ/わたしの暮らしを/書くじゅんびができている」(p.149)(I am a pecil / ready to write / my life.)lifeはこれからの人生も意味するだろう。エンピツになった子どもたちが、少なくともその瞬間、創作・作文を通じて、自分と世界をつなぐという困難にとりくんだこと、3年間という線ではなく、その瞬間、瞬間の点がいかに珠玉のものでありえたかが、いくつかもの詩や作文から感じ取れる。

 両親の不仲に苦しんだ6年生のミゲルが、両親が仲直りして再び教会で誓約するというときに四苦八苦しながら書いた祝婚歌には重みがある(そして「後書き」でのその後にも)。

ぼくはママを
パパにわたします。
風が種を
土に戻すように。

ママのヴェールが
ママの顔をおおいます。
種をおおうのはなんでしょう?
種をおおうヴェールは
固い殻
その下にかくされているのは
木の美しさです。

ママとパパは
二人でひとつです。
種と殻は
二つでひとつです。
ぼくのママと種は
花よめ。
ぼくのパパと湿った土は
花むこ。
ママとパパと土と種……
新しい実がなって
それがまた新しい実をつけて
いのちが続いていくのです!
(p.367-368)

 この3年間を通じて、悲喜あわせてすばらしい経験を得たのはサムさんの方だとサムさんは言う。だけど、誰か大人が少なくとも一生懸命自分に関わったことを、どこかで感じ取り、ツリー・プロジェクトの最後にできあがった「ツリー・ブック」を抱きしめられたことが、もちろん、子どもにとっても、そのときいつか、振り返ったときに何かの力になることが思われる。
 また、最後の方に一瞬だけ出てくる、バンド指導のミスター・フォルティとサムさんとの出会いから、子どもたちの生活が様々な要素がパッチワークされていることにも気づかされる。そのときのサムさんと同様、スジュンのもうひとつの顔を知れて、私もショックを受け、そして嬉しかった。

 個人的なことだが、サムさんとはあるMLでのやりとりを経て、この本が翻訳出版されたことを受けての来日のときにお目にかかることができた。気安く、あたたかく、いたずらっぽく、いろんなお話をしてくださり、私のことも聞いてくださった。本書の中で生徒に「自分を喩えるのに、花や星のようなセンチなものは嫌いだ」と言っているように、ものを書くことへの敬意にも似た冷静さがあり、しかし、その語り口は穏やかで、お客様なのに私たちの方がもてなされたような気持ちになった。 

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マイ・ビッグ・ファット・ウエディング

mygigfatgreekwedding DVDで「マイ・ビッグ・ファット・ウェディング」を見た。原題ではMy Big, Fat, Greek Wedding
 ギリシア系のやかましい大家族の中で育ち、ギリシア流を押し通す教育の中で若いころははばたけなかった30才のトゥーラ。意を決して勉強を始め、痩せて美しくなったことでロマンスが訪れる。けれど、相手のイアンがギリシア系でないことに父親は落胆するし、親戚中が集まってきてくちばしをはさむし、いざ結婚式となればそりゃもう大騒ぎさ状態で、イアンの物静かな両親はあっけにとられる。
 二人は愛し合っているというのが前提だから、深刻でなく障害物競走のように「ギリシア」という異文化や異習慣をどう乗り越えてハッピーエンドになるかを描くラブコメデイ。でも、ギリシアにこだわらなくても娘を嫁に出す父ってこんな感じなのかな、と共通するものも感じた。「なんだい、おれをのけものにしやがって」的な不満と、娘への愛情と。
 big fat=大げさな、だけど、日本の結婚式も(まあ、今ではいろいろバラエティもあるし地味婚もあるけれど)ちょうどあんな感じではないか? 式をしたあとリムジンで披露宴会場に行き、家族親族友人で宴。高砂があって招待席があって。結婚式の、みんなで踊る場面は、みんながそれぞれ何かを乗り越えたすがすがしさがある。オレンジとリンゴのスピーチはちょっといい感じだった、おとうちゃん。

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3歳児検診

 Tさん、3歳児検診である。Tくんも連れていくつもりだったのだが、3年前のマタニティスイミング時代からの友達のYさんが「センターの近所だし、赤ちゃんみててあげるわよー」と言ってくれたので、ものすごくありがたくお世話になることにする。Tさんとマリちゃんは今同じ幼稚園の未就園児クラスに週1回通っていて、火曜日はその日だったのだが、今日に限ってはTさんは休ませて、マリちゃんは参加。
 休ませて何をしていたかというと、検尿とか視力検査とか聴力検査とか。家庭にて。視力検査は、紙を4等分してりんごと飛行機と傘と車が描いてあるものが2枚、1枚は大きい絵、1枚は小さい絵のものを使う。大きい絵でものの名前を確認した後、小さい絵の方をドアに張り、1.5m離れて、ティッシュとセロテープでTさんの片目を隠して、それぞれ答えさせる。全部言えれば1.2だったかそのくらいはあるらしい。備考欄の状況説明の選択肢の中に「遊んでしまってできなかった」などあったのが笑えた。

 未就園児保育は1時半までなので、私の方は二人連れて1時過ぎにYさんの家に行く。私がマリちゃんの弟のトモくんをみている間に、Yさんは自転車で幼稚園に行って少し早めにマリちゃんをピックアップして、1時半過ぎに帰ってきてくれた。それから今度はうちの赤ちゃんを預けて、Tさんと二人で自転車で行政センターへ。受付は2時までだったが、15分前に着く。

 半端な時間での受付だったので待つかと思いきや、意外にスムーズで、私も39歳以下区民検診を受けられたし(でも、これ、Tくんおんぶしてたら絶対血圧上がってたと思う)、Tさんも身長体重、小児科の先生の問診、歯科指導と、やや緊張しつつもきちんと挨拶もできたししっかりこなし、業務トークだろうが先生にもほめられた。身長90.2cm、体重14.25kg。歯も成長も問題なし。妊娠したばかりのときもらった母子手帳を見て「6歳まである!」とその茫漠とした未来に驚いたが、もう半分まで来てしまったのだねえ、きみ。

 ごほうびにコンビニでゼリーを買って、待っていてくれたYさん家へ。もっとかかると思ったそうでびっくりされた>1時間半での帰宅。TくんはYさんの腕の中で眠りに落ちる寸前で、そのあと夕方までおじゃまして、Tさんとマリちゃんは庭で砂いじりをさせてもらい、私たちはおやつでトーク。Tさんとマリちゃんは同い年、そして弟ずもうちは早生まれだけど同学年ということで、心強いお友達なのだ。ただ、転勤族なので、この先数年、どこかで一度はお別れしなくてはいけないだろう。そういうちょっとしたマイナスがあるから、今を一緒に楽しみたいと強く思う。

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名古屋

 IRSCL2007実行委員会の緊急ミーティングが名古屋のアンナンブルー名駅店にて。ランチミーティングだったので、朝5時半に起きて9時に名古屋に着く新幹線に乗り、わずか1時間の滞在だったが、多治見のBook Galleryトムの庭に行ってきた。

 こっそり行こうかとも思ったのだけど、一応ご連絡したら、月岡さんが多治見駅まで迎えに来てくださる。スミマセン、スミマセン。お店で、コーヒーを頂いて、可愛いブックカバーと鳥さんのガラス飾りのお土産までいただき、本とスイートマムの陶器をすごい勢いで物色したところでタイムアウト。
 それでも、みねこさんに、19世紀後半の貴重なグリーナウェイのすばらしい原書を見せていただいたり、原書の絵本と日本版の印刷やつくりについてのお話を伺ったりできて、新鮮な目で絵本を見直す。それにしても、グリーナウェイのA Day in A Child's Lifeの美しかったこと。くっきりした線と、鮮やかかつ繊細な色使い、流れるような楽譜のラインとグリーナウェイらしい絵のディテールのすべてに感動した。
 他の洋書原書絵本も、みねこさんいわく「印刷技術とインクと紙との相性や組み合わせ、いかにしたら一番美しい絵本が作れるかを知っている」職人のお仕事だ。そして、そういう絵本を読める子どもたちは、幸せ、、、というか、そういう絵本こそ当たり前のもとして(特別視ではなく)受け止められなくては、いけない。色合いのセンス、構図、文字と絵のデザイン。センスというのは、こどもが環境から吸収するもの。

 買いあさったのは、自分用に古書の、ハードカバーの『ぐうたら王とちょこまか王女』『小さい魔女』『パディ・クラークハハハ』『六月のゆり』『少年Y』『リトル・カーのぼうけん』。Tさん用に絵本『三びきのこぶた』 『たんじょうびのまえのひに』『くんちゃんのはじめてのがっこう』。スイートマムオリジナルのデザートボウルとスイッチプレートとタイル。すみません、全部発送していただきまして、いつもお世話になります。

 月岡さん、みねこさん&Nさん、本当にありがとうございました。私の第三の場所。

 おいしいベトナム料理をいただきつつ、会議は4時間の長丁場になる。2007Japanで世界の方々をお迎えするために。

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プロジェクト ダブルヘッダー

 午前中はFood for Thoughtプロジェクトの読書会。取り上げられたのは『神、人を喰う―人身御供の民俗学』(六車由実、新曜社、2003)、 『食とジェンダー』 (竹井恵美子編、ドメス出版、2000)、 『変わる家族 変わる食卓』 (岩村暢子、勁草書房、2003)。

 『変わる家族 変わる食卓』は、副題が「真実に破壊されるマーケティング常識」で、従来のマーケティング戦略と食の現在とが合致していないことを明らかにするもの。(自分が)1960年以降に生まれた、子供を持つ首都圏の主婦を対象にした食の実態調査のまとめである。
 それはたとえば、「OL感覚で(食費を)切り詰める」とか「作るかどうかは私の気分」とか、on goingでその渦中にいる者としては、幸か不幸か感覚的に分かってしまうこと。これって、マーケティングの常識からははずれている(らしい)が、そうそう、仕掛ける側の思い通りにいかないのは、出版も同じこと。「作り手発想の料理」「食べさせたいという動機より、作らなければの意識」「私流アレンジへのこだわり」など、ズキンとくる部分も多くあり。
 ただ、お弁当のストレスというのはそんなに感じない。今はTさんが週に1回預かり保育でお弁当を持っていき、来年もお弁当の幼稚園に行くだろうけれど、穀類/炭水化物中心で、そんなに見た目にこだわらなくても普通においしければ、かわいいピックがなくても果物が入ってなくても全体に茶色っぽくても、私は気にしないし、Tさんが「○ちゃんのお弁当はこうだった」話をしても、よそはよそ、うちはうち、だろう。中身はたとえば「梅干ご飯、トマト、アスパラのおひたし、餃子」。変かな? でも、こどものお弁当箱って小さいし、ちょこちょこつめたら、あっという間にいっぱいだ。

 『食とジェンダー』では、同じくマスメディア的に「男性の料理」を論じた章が取り上げられ、ジェンダー的に見た「男の料理」の捉えられ方(草創期には、やけに「ワイルド」「男らしさ」「野外」が強調されていたとか、あくまで趣味の領域だった期間が長かったとか、有名な”わたし作る人 ぼく食べる人”のCMの話とか)を概観。
 でも、それこそ↑の状況になると、既にジェンダーもない「食状況」かも。そういう意味では女性も男性的な料理の作り方(気分や趣味的)をしているし、うちでは、今Tさんのお弁当を作っているのはパートナーである。

 『神、人を喰う』は、博士論文の書き直し。神へのいけにえとしての人柱論なのだが、神が男性神であることが前提になっているのがちょっと気になった。

 ランチはさんで午後はデジタルアーカイブスプロジェクト。長いスパンで、児童文学研究のデータベース構築を目ざす。当面(というか今年)は、猪熊葉子先生の全業績をリスト化する予定。

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エーミールと探偵たち

emileDVDで「エーミールと探偵たち」を見た。2001年のドイツ映画で、「点子ちゃんとアントン」「飛ぶ教室」に並ぶケストナー作品である。
 設定は大幅に変えられていて、エーミールが電車で出会うのは、吸血鬼みたいなやせぎすの若い男。本でキモだったと思う「紙幣に開いたピンの穴」はさらりと「父さんのクリップが証拠だ」で終わっていた。
 というか、原作、どういう話だったか細部が思い出せない。ええと、その紙幣の穴と善良なエーミールと、町いっぱいの子どもの迫力と。。。長いようでいてほんの数日のこと。それも、ベルリンで「始まる」前の話がメインということで、物語の作り方のおもしろさがあったっけ。
 映画では、エーミール万歳だけど、いや、これはポニーの力だろう、と思ってしまった。やっぱり時代でいくと女の子なのかな。度胸といい賢さといいエーミールにまさっているし、ただ、その彼女の「弱さ」が、家族の問題に表されているところに、監督の意識を感じる。点子ちゃんもそうだった。
 町いっぱいの子どもの迫力は、さらに映画ならでは。ラップ調の歌も良かったし、地下墓場の秘密基地も、ありえないけどナイス。
 ただ、ストリートチルドレン?の美人の双子や、結局はもとの場に帰るジプシーも気になる。ハッピーエンドにまとめつつ、何の解決もしていない部分が妙に気になってしまうアンバランスさを感じた。
 でも、おもしろかったです。

Tさんがこういう風に映画を見ちゃったのは初めて。「えいごねえ」というので「ドイツ語よ」と答えた。あとで、「だいこんのえいが、おもしろかった?」と聞かれる。だいこん? どいつご、ともごもご言うとだいこんに聞こえなくも…ない…かな。

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